米中新冷戦時代の情報戦

 キッシンジャー以降の外交、とりわけ安全保障と経済政策決定の軸を担ってきたNSCの話。日本で言うならば外務省と内閣調査室と警察庁外事、防衛庁、それに経済産業省の一部を全部合わせたうえにシンクタンク機能までつけたような組織になってるのがNSC。実質的な閣僚級であり、大統領に対して直接重要政策の決定と、実行のイニシアチブまでも握っている頭脳の中枢と言っていい。

"Running the World" David Rothcopf
Running the World: The Inside Story of the National Security Council and the Architects of American Power

 で、この本は批判されることも多い。大概は「そこまで重要な組織でもねえだろ」という話である。極端に言えば、平和の配当理論もソマリア失敗もアフガニスタンも最終的にNSC国益の判断を見誤って米政界に多大な影響力を持つネオコン派の政策追認機関でしかなかったんじゃねえのということだ。日本以上に大物政治家が闇で握って政策を決める傾向の強いアメリカの場合、この手の超党派機関がそのときどきの政治的風向きに合わせて理屈を変えるのはありがちなことではある。

 しかも、NSCの決定は多岐にわたる。安全保障と銘打ちながらも、昨今の中国によるユノカル買収にいち早く反応したのは、比較的早期にNSCが「中国は潜在的覇権国家」であるとしたことによる。米欧日三極という”世界新秩序”から米中対立という”新冷戦”へアメリカの長期戦略を提唱したのがほかならぬNSCだったからである。

 そして、事実上決裂した対北朝鮮六カ国協議の修正を米朝と中朝の二本の二国間関係問題へと収斂させる作戦もNSCの意向と言われる。世界の紛争地帯の収拾や方向性を決めているのはNSCとやや誇大妄想気味に考えるのも問題だが、それらのパラメータの変化を受けて政策が揺らぐのは当の日本である。拉致問題は追いやられ、日中対立は実質的な米中防波堤という位置づけに否応なく向けられてブッシュJr政権の小泉追認、米日関係のなし崩し的強化という日本にとって重要な政策の影響を受ける際、日本にイニシアチブはあまり存在しない。

 本書では、キッシンジャーブレジンスキー→スコウクロフト→レイク、そしてライスという外交イニシアチブを握り続ける閣僚級の大物政治家にNSCが与えてきた影響力、とりわけ長期の安全保障と経済外交のあり方について、とりあえず網羅してある。事実関係のひとつひとつは当たり前すぎることなのだが、それをNSCの戦略計画の策定という横串で貫いたとき、日本のなかの議論とはまた違った安全保障に対する議論が山ほど成立しうることを知ることになる。

 それにひきかえ日本は、と暗澹たる気分になっちゃいけない。相手は世界覇権を握る国である。しかも我が国の同盟国だ。現代における彼我の差を嘆くよりは、むしろ比較の対象となるのはポエニ戦役勝利前のローマ元老院なんじゃないかとさえ思える。ぶっちゃけ、日本はローマにおけるエトルリア程度の立場であることを充分に見極めたうえで、NSCの政策決定に迎合しながらうまい具合に立ち回って中国の影響力を極力排除していきましょうぐらいのことしかできないのだと実感できてナイス書籍である。